Caliber Stories
Produced by chronos for Grand Seiko
GS史上最高の新世代メカニカルムーブメント
キャリバー9SA5搭載モデルSLGH005の真価
Vol.2
持続時間と精度の両立による
基礎体力の高さ
世界でも最高峰の性能を持つグランドセイコーのメカニカルムーブメント、キャリバー9SA5。ゼロベースで設計を考え直すというアプローチは、量産型のムーブメントではあり得ない、まったく新しい機構を与えることになった。その狙いは、今まで以上の正確さと長い持続時間、そしてグランドセイコーならではの高い耐久性にある。
- 広田雅将(『クロノス日本版』編集長):取材・文
- Text by Masayuki Hirota (Editor-in-Chief of Chronos Japan Edition)
持続時間を延ばしたふたつの動力ぜんまい
機械式腕時計の心臓部にあたる調速機構のてんぷ。一般的に、その動きが速くなると時計は正確、すなわち時計の用語で言うと「精度」は安定する。てんぷの左右の動き(振動)を速くする、つまり振動数を上げることを、時計業界では「ハイビート」という。例えば、1時間に1万8000回てんぷが振動するよりも、2万8800回の方がより精度は安定するし、3万6000回ならばさらに精度は安定するだろう。1960年半ば以降、グランドセイコーはこのハイビート技術に注力することで、時計業界のF1レースとも言うべきスイスの「天文台コンクール」で上位を独占した。そして、2009年発表のキャリバー9S85で、グランドセイコーは3万6000振動/時というハイビートムーブメントを約40年ぶりに量産モデルとして採用した。
しかし、てんぷの振動数を上げると、動力源である動力ぜんまいの力を強くしなければならない。力を増やしたければ動力ぜんまいを太く厚くすれば良い。だが、時計のエンジンであるムーブメントのサイズには限界があり、動力ぜんまいを太く厚くするのは難しい。そのため一般的なハイビートは、力を増やす代わりに、持続時間を短くすることで対応してきた。クルマに例えると、燃費を犠牲にして馬力を上げるようなものだ。
対してグランドセイコーは、まったく違うアプローチでハイビート化に取り組んだ。具体的には、てんぷを左右に動かす脱進機という部品を軽くし、その回転速度を上げたのである。その結果、キャリバー9S85は、3万6000振動/時というハイビートにもかかわらず、約55時間という長いパワーリザーブを持つことに成功した。
それを上回る性能を持つのが、2020年に発表されたキャリバー9SA5だ。精度を出すため、振動数は3万6000振動/時。そしてパワーリザーブはさらに延びて約80時間となった。理論上、ハイビートと長い持続時間の両立は難しいと言われている。しかし、動力ぜんまいを内蔵する香箱をふたつに増やした「ツインバレル」と、動力の伝達効率に優れた「デュアルインパルス脱進機」の採用が、キャリバー9S85を上回る長い持続時間をもたらしたのだ。
複数の動力ぜんまいを直列につなげば、持続時間は長くなる。そこでグランドセイコーの設計者たちは、ムーブメントのサイズを直径31.6mmに広げて、ふたつの香箱を収めるスペースを設けた。しかし、香箱を増やせば問題も起こる。ふたつの香箱をつなぐ歯車への負担が大きくなり、摩耗しやすくなるのである。対してグランドセイコーの技術者たちは、間に入れる歯車を省き、ふたつの香箱を直接つないでしまった。余計な歯車を省くことで、摩耗が減るだけでなく、力の伝達効率が向上した。
キャリバー9SA5の手法は、ハイビート化のために動力ぜんまいの力を増やすのではなく、脱進機をより軽く、より速く動かすこと。そこでキャリバー9SA5では、香箱の回転速度を上げるという手法が取り入れられた。
動力ぜんまいの力は、瞬間ではなく、時間当たりの値として計算される。つまり、強い動力ぜんまいを収めた香箱をゆっくり回しても、弱い動力ぜんまいを収めた香箱を速く回しても、トータルで見れば全体の力は変わらない。そこでキャリバー9SA5の香箱の回転速度は、それ以前のムーブメントの約1.4倍に高められた。すなわち、力を強くするのではなく、速くすることでハイビート化を実現しているのである。
このように、グランドセイコーがトルクを増やすという簡単な解決策を選ばなかった理由は、部品の摩耗を嫌ったためだ。トルクを増やすことによる部品への負担を軽減させるためであり、それは長く愛用できるというグランドセイコーの美点を尊重したものであった。
そういう哲学で作られてきたグランドセイコーにとって、ハイビート化のために動力ぜんまいの力を増やし、耐久性を損なってしまうことは、あり得ない選択肢だったのである。
力を増やすのではなく、軽く、速くすることでハイビートと長い持続時間を両立させる。それは、ハイビート機らしからぬ高い耐久性をも、キャリバー9SA5にもたらしたのである。
ツインバレル
進化を遂げた9Sメカニカルの心臓部
ハイビートと長い持続時間を両立させたキャリバー9SA5。この両立の要となったのが、心臓部である脱進機とてんぷだ。おそらく、量産機でこれほど凝った脱進機とてんぷを持つものは、他にないだろう。もちろん、少量生産の時計には、目新しい脱進機やてんぷを持つものもある。しかし、キャリバー9SA5は、それを量産したという点で、かつてない。
動力ぜんまいのほどける力は、複数の歯車を経て、がんぎ車とアンクルで構成される脱進機に伝えられる。その脱進機は、がんぎ車の回転する動きをアンクルの左右に振動する動きに変換し、そのアンクルが心臓部であるてんぷを左右に動かす。てんぷは、柱時計における振り子と同じ役割を果たし、結果として、機械式時計は一定のリズムで動き続ける。機械式時計が機械式時計である理由は、脱進機とてんぷがあるからだ。
驚くべきことに、キャリバー9SA5はその脱進機自体をまったく別物に変えてしまった。多くの機械式腕時計が採用するのは、約200年前に発明されたと言われるクラブツースレバー(またの名をスイスレバー)という脱進機である。これは、がんぎ車がアンクルを介しててんぷを左右に振動させる構造となっており、動力の伝達ロスが大きい半面、衝撃に強く、動力ぜんまいがほどけ始めたら自動的に動くという利点(自起動性)を持つ。動力ぜんまいを巻けば機械式腕時計が動く理由は、脱進機にスイスレバーを採用しているからだ。
一方、スイスレバーとはまったく逆の性格を持つ脱進機もある。それがデテント脱進機と呼ばれるものだ。衝撃に弱く、動力ぜんまいを巻いても自動的には作動しにくいが、がんぎ車が直接てんぷの振り石を叩くため、動力の伝達ロスは小さい。
キャリバー9S85
キャリバー9SA5
キャリバー9SA5が採用したデュアルインパルス脱進機は、スイスレバー脱進機とデテント脱進機のメリットを併せ持つものである。これはスイスレバー脱進機のメリットである耐衝撃性と自起動性の高さに加え、スイスレバー脱進機よりもはるかに高い動力伝達効率を誇る。
他社にも同じような脱進機はあるが、キャリバー9SA5のデュアルインパルス脱進機は、軽いというメリットがある。動力伝達ロスの小さな脱進機であっても、重ければ性能は悪くなる。そこで、グランドセイコーはキャリバー9S85から本格的に採用した、MEMS(Micro Electro Mechanical Systems=微小電気機械システム)という手法を使って、脱進機を軽く製造することに成功したのである。
動力ぜんまいを収めたふたつの香箱を直列につないで速く回転させ、動力伝達効率の良い脱進機でてんぷに動力を伝える。こういった積み重ねにより、キャリバー9SA5は、ハイビートと長い持続時間、そして優れた耐久性を得たのである。
さらに、脱進機から動力を伝えられるてんぷも、これまでのグランドセイコーとは別物だ。時計の心臓部であるてんぷは、ちょうど柱時計における振り子と同じ役割を果たしている。動力ぜんまいの力が強くても弱くても、振り子に相当するてんぷは一定のリズムで振動を続ける。機械式時計が、正確に動き続ける理由だ。柱時計の場合、重力の影響により、振動する振り子は常に元の位置に戻る。しかし、さまざまな姿勢で使われる機械式腕時計の場合、振り子にあたるてんぷが、必ずしも元の位置に戻るとは限らない。そこで機械式腕時計は、ひげぜんまいという部品を使って、てんぷを強制的に元の位置に戻すのである。
デュアルインパルス脱進機
クラブツースレバー(スイスレバー)脱進機
機械式腕時計には欠かせないひげぜんまい。加えて、ひげぜんまいには、その長さ(有効長)を変えることで、時計の遅れ進みを簡単に調整できるというメリットもある。ひげぜんまいの長さを変えるのが、緩急針という部品だ。これは多くの機械式腕時計には不可欠なものだが、衝撃を受けてひげぜんまいが変形すると、緩急針に引っかかって止まりの原因となる。機械式腕時計を着けてスポーツをするな、と言われる理由だ。また、ひげぜんまいを挟むようにして遅れ進みを調整する緩急針は、当たりが悪いと、むしろ精度を悪くする原因となった。
そこでグランドセイコーは、まったく新しい手法を採用した。それがグランドセイコーフリースプラングである。緩急針を用いてひげぜんまいの長さを変えなくても、振り子の重りにあたるてん輪を重くしたり、軽くしたりすれば、時計の遅れ進みは調整できる。そこで、キャリバー9SA5では緩急針を廃して、その代わりにてん輪の外周に4つの重りが取り付けられた。これを外側に出すと、振り子が重くなったのと同じ効果があり、時計は遅れ傾向になる。対して内側に引っ込めると、振り子が軽くなったのと同じ効果を得られ、時計は進み傾向になる。キャリバー9SA5は、この緩急針に頼らずに遅れ進みを調整できるフリースプラングを、日本の時計メーカーの量産機として初めて採用した。
加えて、ひげぜんまいの形も変更された。てんぷを元の位置に戻すためのひげぜんまいは、できるだけ同心円状に広がり縮むのが良いとされている。ひげぜんまいの伸縮が同心円に近くないと、ひげぜんまいの重心がずれて、てんぷの動きが不安定になるとされていたためだ。そこで、一部の高級腕時計は、ひげぜんまいの外側(外端)を、中心方向にねじ曲げる「巻上ひげぜんまい」を採用してきた。これは理論上、ひげぜんまいが同心円状に近い理想的なかたちで拡大収縮するというもの。とはいえ、実際の巻上ひげぜんまいは、完璧な同心円状には拡大収縮はしなかった。
ゼロベースで設計を見直したキャリバー9SA5は、脱進機同様、やはりその常識にも挑んだ。形としては、理想的な円状になるはずの巻上ひげぜんまい。しかし、キャリバー9SA5の巻上ひげぜんまいは、あえて円状に広がっていない。ムーブメントの設計を担当した藤枝久は、8万通り以上ものシミュレーションを行い、時計がより正確になる理想的な巻上ひげぜんまいを作り上げたのである。
ツインバレル、デュアルインパルス脱進機、グランドセイコーフリースプラングとユニークな巻上ひげぜんまいを採用したキャリバー9SA5。以前の天文台クロノメーターや少量生産機ならば、ここまで手の込んだ革新的な機構を追求したとしても理解できる。しかし、キャリバー9SA5はあくまでも量産される自動巻ムーブメントなのだ。驚くべきメカニズムを開発し、それを生産ラインに載せる。それこそが、グランドセイコーのグランドセイコーたるゆえんなのだ。
グランドセイコーフリースプラング & 巻き上げひげぜんまい
To be Continued......