Caliber Stories
Produced by chronos for Grand Seiko
異次元の性能を手に入れた新世代スプリングドライブの革新性を見る
Vol.4
世界水準を超えるグランドセイコーに与えられたムーブメント仕上げの独創性と職人技
スプリングドライブの在り方を大きく変えたキャリバー9RA2。しかし、変わったのは性能だけではない。新世代のムーブメントにふさわしく、仕上げも進化を遂げたのである。それを可能にしたのは、最高級の腕時計を手掛けるマイクロアーティスト工房との連携と、優れた職人技であった。
- 三田村 優:写真
- Photographs by Yu Mitamura
- 広田雅将(『クロノス日本版』編集長):取材・文
- Text by Masayuki Hirota (Editor-in-Chief of Chronos Japan Edition)
デザイナーが語るキャリバー9RA系に込めた想いの丈と匠のノウハウ
ほとんどの時計メーカーでは、ムーブメントにデザイナーの手が入っていなかった。時計を動かすエンジンに、デザインは必要ないという考えは、ある意味正しい。しかし、グランドセイコーはムーブメントの美観にもこだわってきた。そしてキャリバー9R01以降、より積極的にデザイナーが関わるようになったのである。
グランドセイコーのスプリングドライブとクオーツモデルを製造するのが、セイコーエプソンの塩尻事業所だ。キャリバー9RA2の仕上げデザインを手掛けたのは、デザイナーの星野一憲。主にマイクロアーティスト工房が製作する時計をデザインしてきた彼が、ムーブメントを見直したのである。彼が手掛けたムーブメントのひとつに、キャリバー9R01がある。星野はキャリバー9R01では、高ボッチ高原から望む富士山と諏訪の夜景をムーブメントに盛り込んだが、キャリバー9RA2ではモチーフが初冬の空となった。
「エプソンにあるマイクロアーティスト工房では、ムーブメントに手作業で繊細な仕上げを施しています。では、そのような少数生産のキャリバーに採用していた仕上げを量産モデルに採用できないか、と考えていました」(星野)。初の試みは2017年のキャリバー9R01。2021年発表のキャリバー9RA2はさらに新しい仕上げが盛り込まれた。仕上げの進化がデザインの進化を促すという、グランドセイコーの特徴は、キャリバー9RA2も例外ではない。
霧氷仕上げと曲面ダイヤモンドカットの妙技
「今までのグランドセイコー用ムーブメントはスピン仕上げと、ダイヤモンドカット仕上げを併用していました」と星野は語る。スピン仕上げとは、スイスのメーカーが言うジュネーブ仕上げのこと。回転する切削ツールをムーブメントに当てて直線状に引っ張ると、ムーブメントには波のような筋目模様が施される。一方のダイヤモンドカットとは、人工ダイヤモンドを取り付けた刃で、表面を均す手法だ。例えるなら、カンナがけのようなものだろうか。強いスピン仕上げと、エッジに施された深いダイヤモンドカット仕上げは、グランドセイコーの明快な個性と言える。しかし、星野は、あえて違う手法に取り組み、キャリバー9RA2に「霧氷仕上げ」を盛り込んでみせた。なるほど、ムーブメントの表面には、あたかも霧が凍結したかのような仕上げが施されている。
時計業界では、こういう表面を荒らした仕上げを「ブラスト仕上げ」や「フロステッド仕上げ」と言う。スピン仕上げに比べて簡単そうに見えるが、これは、独立時計師の作品や、一部の超高級時計にしか見られないものだ。均一に表面を荒らすのは、極めて難しいのである。しかも、面積の大きなキャリバー9RA2のようなムーブメントならなおさらだ。
「他の仕上げも検討しましたが、量産でできることを条件にすると、霧氷仕上げに決まりました。ただし、具体的な手法は秘密です」。どうやって施すのかは不明だが、霧氷仕上げの荒らし方は均一で、しかも目が細かい。目を荒くすると表面に均一な荒れを加えやすくなるが、高級感は損なわれる。対して、目を細かくすると、高級感は出るが、しばしば目が潰れて、フラットな仕上がりになってしまう。目の細かさと均一さを両立したキャリバー9RA2の霧氷仕上げは、価格帯を問わず、比類のないものだ。
グランドセイコーの個性である強いダイヤモンドカット仕上げも変更された。今までは、表面がフラットな、いかにもダイヤモンドカット仕上げという見た目を持っていたが、キャリバー9RA2のそれは、曲線美をまとう丸みが特徴だ。時計業界の常識を考えると、「カンナがけ」でこういう丸みを与えるのは不可能である。
しかし、セイコーエプソンは、フラットな仕上がりであるはずのダイヤモンドカット仕上げに、丸みを持たせることに成功したのである。霧氷仕上げといい、丸みを帯びたダイヤモンドカット仕上げといい、量産ムーブメントの仕上げではない。
また星野は、もうひとつの遊び心を加えた。それが、真空パッケージICを支えるプレートに施された独特の模様だ。ちなみに、この部品は粘性のある純鉄製のため、スピン仕上げなどの模様は施せない。星野は語る。
「クレドールの叡智Ⅱを発表した後、海外のお客様から話を聞きました。彼は日本人よりも日本のことを分かっているかもしれない、と感じたのです。であれば、あえて日本的な仕上げを加えても、きっと分かってもらえると思ったのです。あえて言わなかったのは、後から気づく喜びを感じてほしかったから」
星野はデザインモチーフを明言しなかったが、霧氷仕上げと丸いエッジからのぞく、日本的な模様は、このムーブメントが日本製であることを言わずと主張する。
もっとも、技術の進歩だけが、新しい仕上げをもたらしたわけではなかった。それを可能にしたのが、優れた職人たちである。
ハイレベルな仕上げを実現する「信州 時の匠工房」の卓越したクラフツマンシップ
グランドセイコーに求められる品質基準は、非常に厳格に定められている。これは、外装だけでなく、ムーブメントも同様だ。しかし、新しいキャリバー9RA2に施された仕上げは、量産品のレベルを超える繊細なものだ。では、どうやって、その厳格な品質基準を満たすべく、まったく仕上げに傷を付けないで組み上げることができるのだろうか?
星野は語る。「キャリバー9RA2が出来た時、組み立て部門からはかなり文句を言われましたよ。こんな仕上げを持つムーブメントは組み立てられない、と」。対してエプソンは、部品の取り扱いと組み立て方法を変えることで対応した。「つまり作り方をまったく変えたのです」。
時計業界に霧氷仕上げのようなフロステッド仕上げが普及しない一因に、取り扱いの難しさがある。表面を細かく荒らしたこの仕上げは、わずかにピンセットが当たるだけで傷が目立ってしまう。独立時計師や、優れた職人が携わる超高級時計だけが採用してきた理由だ。もちろん、エプソンの組立師たちも優秀である。しかし、マイクロアーティスト工房の時計でさえまだ採用していない繊細なフロステッド仕上げは、かなり取り扱いが厄介だ。星野も「当初は組み立て時に傷が付いた」と語る。
対して、エプソンは、完成したムーブメント部品を保護シールで覆うことで対応した。筆者の知る限り、ムーブメント部品に保護シールを貼った例はほとんどない。そもそも、時計メーカーに保護シールを貼るような設備はないし、保護シールを剥がす際に傷が付く可能性があるからだ。しかし、エプソンはその課題をクリアしてみせた。
傷を付けない、という姿勢は、ムーブメントの組み立て時にも見て取れる。霧氷仕上げを施した受は、なんと手作業で取り付けられる。複数の軸が歪まないように丁寧に受をはめ込んで、手作業で軽く押さえていく。量産品とは思えない気の遣い方だが、だからこそ、キャリバー9RA2は、かつてない仕上げを持てたのである。
スプリングドライブの水準を一新する高性能に加えて、量産機では不可能とされた仕上げを盛り込んだキャリバー9RA2。次回は、キャリバー9RA2を搭載した最新作とそのデザインコードの核心に迫る。
To be Continued......